毎月19日の街頭活動も、市議会議員選挙のまっ最中だったので、23日夕方大津駅前での取組に変更。
市民アクションしがの仲間が集まって、思い思いのリレートーク。オカリナの演奏が夕暮れの空に広がって、今夜は署名に協力してくださる方が多かった。
5月3日(金)憲法記念日に、膳所公園で14時から、安倍9条改悪NO! 滋賀県民集会Part.7 の参加をよびかけるビラも配布した。裁判所の方から帰ってこられたのか、井戸謙一弁護士らが通られ、「私もちょっと話をする予定です」とおっしゃった。
みなさん、ゴールデンウイークの琵琶湖畔、散歩のついでに、ふらっとご参加を。
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憲法9条に関連して、私の子供の頃の話を。母方の祖父ですが、なけなしのお金をやりくりして、孫の私に玩具を買ってくれました。しかし戦争おもちゃは絶対買ってくれなかった。子供の頃、ゼロ戦はやととか、のらくろとか流行っていましたが、他の子どもは買ってもらったのに、私は全然。後から知ったことですが、祖父の親族が第二次世界大戦の終わる前に、特殊潜航艇で連合国の軍艦に特攻して帰らぬ人となっていたのです。
第二次世界大戦末期が近づくと日本政府は根こそぎ動員に踏み切りました。男子は20歳が徴兵年齢でしたが、これが17歳となりました。女子は徴兵の代わりに軍需生産動員で強制連行、強制労働となり、徴兵の「赤紙」に対して「白紙(しろがみ)」が来たそうです。滋賀県からも、多くの女子が名古屋周辺の軍需工場(三菱重工、川崎重工、中島飛行機、愛知航空機、豊川工廠など)に送られられたのです。「女子だから、私かんけいないよ。」じゃないのです !
アメリカ軍の戦略爆撃で、これら軍需工場は爆撃の対象となり、多くの女子が焼死しました。名古屋で特にひどかったのが、現在ナゴヤドームになっている三菱重工大幸工場。航空機エンジンの一大生産拠点で、ここが猛爆撃で壊滅。近くの名古屋城も焼失しました。
日本は、この戦争で多くの人々を失い、これに懲りて二度と戦争をしないと決めました。それが憲法9条なのです。社会党は、その中でも中心となって頑張ってきたのです。母方の祖父も早くから社会党で活動したそうです。
滋賀県では、1946年の衆議院選挙で、滋賀全県区に矢尾喜三郎氏が社会党から出て当選され、1969年に落選するまで通算9期、衆議院議員を務められたそうです。対抗する保守勢力の代表格は、西武グループの堤康次郎氏で、長年のライバルでした。社民党も、偉大な先人、矢尾喜三郎氏の功績を宣伝していくべきでしょう。
航空自衛隊のF-86戦闘機の後継機として政府が導入を決めたF-4に対し、社会党は政府を激しく追及し、航続距離を延ばす目的の空中給油装置の採用を断念させた経緯があります。歴史に残るこれらの功績を、もっと広めなくては。